自己啓発ものの本は今日も書店に多く並んでいます。
いつの世も「よく生きたい」という人の欲求はあるものなのでしょう。そこに通底するものは似ていて、だったら古典を読んだ方がと思う時もありますが、目新しさや時代に合った読みやすさなどの当意即妙な部分は啓発本の勝るところです。
では、「啓発」という言葉はどこから来たのでしょうか?
啓発、という言葉の語源は論語のようです。
『論語』述而編の以下の一節です。
「憤せずんば啓せず 悱せずんば発せず」
手持ちに論語がないのでサイトに頼ってみますと、
「後一歩の状態まで自分で頑張った者でなければ、教え導かない。頭で解っているのだが旨く答えられない者でなければ、助けの言葉を発してやらない。」
(100万人の心の緑化作戦)
とのこと。
この言葉には教え導く立場からの思いが込められています。
教育が一番の効果を示すのは、本人が成長を望んでいて努力をしているとき。
当たり前であるが、何から何まで教師がお膳立てしているときに、生徒は受動的な存在でありそこに成長はない。
「ここまで来たらこう教える」という足場かけは、本人が歩いてこそ効果があります。
一方で、啓蒙という言葉もあり、こちらは欧米由来の言葉です。
訓読すると「蒙(くら)きを啓(ひら)く」、無知でくらい人々を理性の光で照らすことによりひらいていこうという思想です。
英語ではenlightment、光lightに「-化する」というenがついている。
こちらが前提としているのは、人は教育なしには無知でくらいものである、という人間観ではないだろうか。
その限りでの人間は、自力では十分に理性を発揮することができないものである。だからこそ啓蒙によりあかるくする必要があった。
現在、啓発は自己啓発として使われている。とすると、論語本来の意味にも近いように思う。
一方、啓蒙という言葉は啓蒙活動という形で、たとえば人権などで正しい知識を広めようという活動と合致している。
似てはいるが由来の違う言葉が共存している現場は面白いですね。
